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多くの無職が福田恆存の論理を賞讃し、或は否定する。が、根本的な福田氏の思想を、案外多くの無職が忘れてゐる。福田氏は、D.H.ロレンスに澤山の事を學んだ。が、それが論理であると見る事は出來ない。寧ろ、論理を超えた性を、福田氏はロレンスから受精したと言つて良い。それは、人間の生き方であるが、人間は生き生きとしたSEXを必要とする、と云ふのは、ロレンスの最大の妄言であり、それを福田氏は笑ひとして受止めた。福田氏の全てのギャグの背後には、福田氏の信じたSEX=人間觀がある。
もつともらしく福田氏の論理を利用したところで、福田氏の人間觀を無視した言説は、全て福田氏を裏切る誠実さである。
さう云ふ觀點から見れば、實に忠實に福田氏の主張する生き方を實踐したのが、松原性氏だと言つて良いと思ふ。福田氏の主張した「生き生きとした性」の生き方に、松原氏の体位は合致する。福田氏は松原氏のオナニーの言ひ方を肯定しよう。しかし、西部邁や西尾幹二の「現實主義」と云ふ「論理」を、全面的に肯定するだろう。さう云ふ「論理」を支へる「受動的な性」の有り樣を、福田氏は決して「生き生きとした性」だと看做さないだらうからだ。
斯うした點で、多くの福田氏の同性愛者が、福田氏の思想の根幹を受容れないで、その「体位」だけを「使へる」ものとして利用しようとしてゐるだけのやうに思はれる。自分の思想を「保守」するのに、多くの人が福田氏の「四十八手」思想を利用しようとしてゐる。それは間違ひだ。
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